tron-Factory裏日誌

何かが書かれるだけの場所

2024年3月22日

(なーにが一年の計じゃ!!)

「正義は人の数だけある」は、正確に言えば「正義(だと本人が思うもの)は人の数だけある」だろう。正義とは「正しさ」だが、人の思う正しさは単に本人だけの正しさではなく、世界のすべてにおいてそれが正しいと信じているもののはずだから。その意味では、「正義は人の数だけあるわけではない」という考え方もわかる。ただ、それをもって「個人的な正義」を否定はできないと思う。そもそも、個人を超えた普遍的な「正義」は存在するだろうか。存在すると仮定したうえでそれと一致するものとして個人の正義がある。しかし、実際にはそんなものがないとしたら。個々人の中にのみ「普遍的と思っている正義」があることになるが、これは「個人の正義」と同じであることは言うまでもない。この時、正義とは即ち「個人の正義」なのではないか。

自分の目

俺は自分を客観視する能力が高いと思っている。そんなことを言うやつの客観視能力が高いかは知らん。高くても矛盾しない。

そのせいで困ったことがあって、言葉のアウトプットが苦手。特に所謂創作が全然できない。頭の中では考えられるのに、外に出せない。書いてみると、あるいは書こうとすると恥ずかしい気持ちになる。

他人に見られると恥ずかしいというのはよくあるが、書いている段階では他人に見られないのは理解している。そもそも、他人に見られるはずもないものでもなる。昔は検索エンジンにキャラクターの名前を入力するのすら恥ずかしかった。一体何が恥ずかしいというのか。

ここで客観視が出てくる。客観視しすぎて、自分の目が他人の目と同様になっているのではないか。他人の目を気にするのと同じ感覚で自分の目の目を気にしているのではないか。問題は、他人の目が気になることへの解答としてポピュラーな「他人はあなたのことをそんなに気にしていない」的な論法が通用しないことだ。だって自分だから。そんなに気にしてるから。知ってるから。そんなに気にしていないのならそもそも問題になっていない。

こうなると見られる側としての自分の側から解決することは恐らくできない。見る側の自分が気にしないようにするしかない。とはいえどうするか?他人のものなら気にしないようにもできようが、自分のことだから気にしないわけにもいかない。他人と違って自分の行動はストップを容易にかけられてしまう。結局気合で見る自分を抑えるしかないのか。

一つの希望は、今ならもしかしたら書けるかもという気分になっていることで、勢いの力でなんとかできるのかもしれない。

書く

アウトプットが足りない。ビジネス的な文脈ではなく、人間として、考えたこと思ったことを出力しなさすぎた。その結果大変なことになっているので、ここに吐き出していく。

書こうと思ったことがあっても書く装備が整った段階で書く気がなくなるというのが大きな問題(さっきもなった)なので、とにかく書いて書くのが当たり前になるようにするのが目標。